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はじめに:「安西先生…!モデルが知りたいです…」
クオンツとして金融機関に所属すると、先輩たちが構築したさまざまなモデルを見ることになると思う。
多くのモデルには元となる論文や本があって、コーディングを見ると(大枠としては)その通りに実装していることが多い。とはいえ、すでに入っているモデルは長年トレーダーとクオンツがブラッシュアップされてきたモデルであり、様々な工夫が入っている。初期パラメータの選定などは代々受け継がれてきた秘伝のタレのように熟成されており、もはや芸術の域に達しているものもある。
いずれにせよ、既存モデルを改良したり新商品に向けて少し手を加えたりといったことはそれほど難しいことではない。
難しいのは全く新しいモデルを作る必要が出てきたときである。
一つは規制やマーケット慣習の変更で既存のモデルでは対応できなくなったケース。5年ほど前に起きたマイナス金利の発生やこれから起こるLIBOR廃止への対応などが思いつく。いずれにせよ、この場合は緊急性が高く開発に費やす時間的猶予はあまりない。
もう一つは単純にモデルをより精緻なものにしたいという要望に応えるケース。例えばVolatility Smileを表現するためにLocal VolからStochastic Volに変更するケースや、より商品の幅を広げるためHybrid ModelにIRとFXだけでなくCommodityやEquity、Creditなどを入れるケースなど。この場合はマーケットへのフィッティングを見ながらじっくり時間をかけて開発できる。
ただ、吟味したモデルを苦労して実装してみたものの全くフィットしないというケースが往々にしてある。論文では素晴らしい結果が出ているのに、実装してみると全く再現できないのである。こういう場合、意を決して論文執筆者に聞いてみても大体なしのつぶてである(実話)ので、自分で時間をかけてよいパラメータを探すしかない。
最悪その論文の想定があまりにも理想的過ぎたり、検証したマーケットの基準日が古すぎたりして、現在のマーケットでは到底再現できない可能性もある。その場合はモデルの選定からやり直しとなり、それまでにかけた多大な時間が無駄になってしまう。
どちらのケースでもまず気になるのは「他行はどんなモデルを使っている/使うつもりなのだろう?」という疑問である。特に米系の大手投資銀行などは20年以上前から最先端のモデルを開発し続けており、人員もコアのクオンツ部隊だけで100人は下らない数が配置されてきた。そんな巨大銀行が使っている/使おうとしているモデルはいったいどのようなものなのか?あわよくばそのまま流用できないか?それができれば検証する手間も時間も省けるので、これ以上楽なことはない。
しかし、マーケットメイカーにとってプライシングモデルの情報は最重要の極秘情報である。もし漏れたら他行にプライスが丸わかりになってしまい、引き合いなどで相当不利になる。最悪アービトラージを見つけられてどこかのHFに大儲けされて(自行は大損させられて)しまうかもしれない。よって、もし他行に漏らしたのがバレたら守秘義務違反で懲戒免職ものである。
それほどの重要情報なので、「ところで何のモデル使ってるの?」とストレートに聞いてもまず教えてくれない。ライバル行ならもちろんのこと、お客様だとしても「弊行の金利モデルは期間構造モデルとなっております」など「当たり前だろ!」とローリング・ソバットを食らわせたくなるようなモヤッとしたことしか教えてくれない。
しかし、それでも他行モデルを知る方法がないわけではない。自分の知る限り、それは3通りほどある。
他社モデルを知る3つの方法
①他社のクオンツに教えてもらう
クオンツといえど人の子であるので、いくら秘密とは言え自分が手塩にかけて開発したモデルを話したい気持ちはある。特に相手が(自分が漏らしたことを)絶対漏らさないと確信している場合はなおさらである。
よくあるケースは、海外大学の研究室で同じ釜の飯を食った仲だったケース。この場合はどちらも金融機関でクオンツをしていたりして、お互いに情報交換するメリットがあるし、何より人となりをよく知っているため信頼できる。逆に自分がモデルを教えてもらいたくなった時にも気軽に聞けるし、今後転職のときなどにお世話になるかもしれない。恩を売っておいて損はないのである。
実際、私の知り合いで海外の有名大学院を卒業し、博士号を取得した人物がいるが、彼はその時のご学友からいとも簡単に大手投資銀行が使っているモデル名やその詳細を聞き出していた。
ただ、そもそも日本の大学から欧米大手投資銀行のクオンツ部門に行く人はかなりレアであるし、いてもモデルの運用が中心でモデル開発にほとんど関わっていなかったりする。海外の有名大学院などを卒業していない限り、そのような友達がいることはほとんどないだろう。
いないなら作ればいい、ということも考えられるが、それはかなり難しい。特にセミナーや交流会などは悪手中の悪手である。
欧米でデリバモデルのセミナーなどに参加し、主催者の開く懇親会で「ネットワーキング活動()」をしたとしても、いるのは大体ベンダーやフリーのコンサルタントである。銀行所属でも非フロントだったりして、コアとなるモデルの詳細を知っているような第一線のクオンツが来ることは滅多にない。講師という形でいることもあるが、あくまでお客様としての対応である。ちょっとランチを一緒にしたくらいでモデルの詳細をペラペラ話すほど信用してもらえることはまずない。
よって、このパターンはすでにそういった友達がいるケースに限られる。
②他社にクオンツとして転職する
これは一番手っ取り早い方法である。頭の中にあるモデルを別の銀行で再現するのは守秘義務違反ではないので、法令違反の心配もない。CFAのEthicsでも認められている。(もちろん文書やコードの持ち出しは厳禁。)
ただ、それには「世界中から応募者が殺到する大手投資銀行のクオンツ採用面接をくぐりぬけ、モデル開発に携わって内容を理解して、再び元の銀行に戻る」というまるでスパイ映画の潜入捜査のようなことをしなければならない。それにせっかく大手投資銀行に入れてモデル開発ができているのにわざわざ辞めるメリットはほとんどない。
なお、ニューヨークやロンドンだと同じ業界での他行への転職は日常茶飯事なので、有用なモデルの情報は転職を通じてすぐに知れ渡る。気づけばどの銀行も同じモデルを使っていたりして、次第にそのモデルがマーケットスタンダードになっていくことも多い。
③他社のクオンツを採用する
おそらくこれが一番よくある方法である。
大手投資銀行のモデルが知りたければ、そこでバリバリモデル開発をしていてそのモデルに精通しているクオンツを見つけて採用すればいい。あとは「元いた銀行で使っていたモデルを実装して」といえばいいだけである。モデルの理論的な部分は多くの場合公開されているので、それを実装したといえば何も問題ない。たとえ初期パラメータや細かい最適化の設定を全く同じにしたとしても、他行にはそれを糾弾するどころか知るすべすらない。
マイケル・ルイスのフラッシュ・ボーイズという、5年前くらいに発売された有名な本がある。(下記左は文庫本、右はハードカバー)
高頻度取引(HFT)業界の内情について書いた本で、出版後は「HFTをやっている銀行やHFはフロント・ランニングをしているに等しい!詐欺だ!」と全米どころか世界中の市民たちが怒り狂い、政治家や司法まで巻き込んで大騒ぎになった上、最終的に当局が規制を強める結果になったいわくつきの本である。
その本を読んでいくと、主人公のブラッド・カツヤマがHFTの存在に気づき、その実態を知るべく最初にやったことは技術者やトレーダーの採用活動であった。
ウォール街の投資銀行で働く人間が、他行の企てを暴く一番簡単な方法は、移籍を考えている行員を見つけて面接をすることだ。
フラッシュ・ボーイズ P.118
その面接を通じて他社の様々な情報を聞き出し、本当に良く知っていそうだと分かった場合はそのまま採用していた。もし条件や能力が折り合わず不採用となっても情報だけは手に入るので、どう転んでも損はしない。その上やっていることはただの採用活動なので法的には何も問題はない。最強の情報収集方法である。
ちなみに、作中ではセルゲイというロシア人天才プログラマーがゴールドマン・サックスで開発したコードをメールで自分宛に送っていたが、これは完全にアウトなので注意してほしい。本人は悪意はなく、単にオープンソースに公開したかっただけのようだが、程なくFBIに逮捕されて禁固8年という重い罪になっていた。紙や電子ファイルなど、形のあるものを持ち出すことは絶対にしてはいけない。脳内にあるものだけが持ち出しを許される。記憶を壊す技術はまだ開発されていないため、それを置いていけと言われれば自決するしかないので当然である。
採用活動というのは便利なもので、普段なら絶対に教えてくれない自社モデルの詳細についても、面接の質問だと言うだけですんなりと話してくれる。それだけでも十分価値があるし、モデルの細かい設定や挙動まで知っている「真の」モデル開発者だと分かったならそのまま採用してしまえばいい。逆に本に書いてあるようなことしか知らないようなら不採用にすればいい。
ある日、ロンドンで某米系大手投資銀行の金利モデルを担当していたフランス人応募者が面接に来た。その人はモデルの詳細までよく知っており、モデル名やファクター数、最適化手法など、細かいことまで普通に答えてくれた。能力的にも申し分なかったので、当然ながら面接者全員太鼓判を付けてオファーを出したものの、条件が折り合わず他へ行ってしまった。その時はよい待遇を出せない会社を恨んだものであったが、面接で聞いた内容だけでも十分に有用なものであり、その後のモデル開発でも大いに参考になった。
おわりに:「そうだ、採用しよう!」
以上、聞いてみれば「なんだそんなことか」と思われるかもしれない。ただ、本やドラマでは聞いたことがあっても実際にそれをしたことがある人は余りいないのではないだろうか。私も実際にその現場に関わって、その有用さに驚いた経験がある。
②は組織ではなく個人のキャリアとして見る場合はお薦めである。進んだモデルを使っている会社に転職して実際に使われているモデルを知ることができれば、その知識や経験が転職時に自分を売り込む糧になる。それを基により先進的なモデルを持つ会社に転職できれば、知識や経験は更に深まる。そうして正のスパイラルがどんどん回って、気づけばその分野の第一人者と呼ばれているかもしれない。そこまでいかなくても、遅れている会社に好待遇で迎えられ、先進的かつ実践的なモデルをゼロから実装するというルートもある。大学などの研究機関に行ってもいいかもしれない。いずれにせよあなたの未来は安泰だ。
高度な訓練を積んだ科学者と技術者の集団は、投資銀行によってウォール街に吸い込まれ、そこで仕事を覚えると、もっと小さな超高速取引の会社へ移っていくことが多かった。彼らは大企業の従業員というよりも、フリーエージェントのように振る舞った。
フラッシュ・ボーイズ P.155
③の情報を得るために人を採るという行為には若干後ろめたさを感じるかもしれない。しかし、生き馬の目を抜くロンドンやニューヨークの金融業界では当たり前のように行われており、フラッシュ・ボーイズを例に挙げるまでもなく他社にモデルや技術が漏れるのは日常茶飯事であった。製造業の世界でも、10年ほど前に日本の優良企業から韓国や中国企業に優秀な技術者が大量に引き抜かれ、日本の先端技術の流出が起こったことは記憶に新しい。情報そのものの流出を止めることはできても人(とその技術)の流出を止めることはできない。できたら奴隷制度の復活である。
ただ、一つ注意点があって、採用拠点が結構重要ということだ。欧米大手投資銀行のモデルが知りたければその開発本部があるニューヨークやロンドンで定期的に採用活動をするべきである。そうでないとモデルの中身をよく知っているクオンツは中々みつからないだろう。
なお、この話は金融工学モデルだけでなく、フラッシュ・ボーイズのようにHFT技術でもいいし、今でいえば機械学習モデルなどにも応用可能だと思っている。要は公開されていない(社内限りの)モデルがある分野すべてに通ずる話なので、「グーグルやアマゾンはどんな機械学習モデルを使っているのか?」といった場合にも使えるだろう。気になっている人は是非やってみてほしい。もちろん、法に触れない範囲内で…。
ソウスケ
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